という、フォトジャーナリズム月刊誌がある。
創刊号から拝読させていただいている。
まさに命がけで撮ったと思われる写真の数々に心を奪われ、動かされる。
同じ地球の中に、同じ時間軸の中に、こんな世界がまだまだまだまだあるのかと ・・・
その主人公はいつも「人間」
ほとんど意味も無く命を奪われる子ども、女、男、老人。
他国による戦争という形、自国による内乱という形、昔からの習慣、地域の慣習。
その大元は資源であり、カネであり、差別であり、格差であり、思い込みであり、不安であり、恐れであり ・・・
その真実を毎月、数年に渡って知り続けると正直己の無力さに愕然とするし、方向を見失いもするし、無気力にもなる。 何をなすべきなのか分からなくなる。 何が出来るのか分からなくなる。
しかし、しばらくすると、知り得たからこそ湧き上がる気持もあることに自分の行動を通して気づくこともある。
世界は不思議なくらい反対の性格、環境、性質等が共存している。
右を知るには左が必要。 上を体験するには下が必要。 正を理解するには悪が必要 ・・・
もし「反対の環境」が無ければどちらか一方だけの世界であったなら、これほど何も起きない世界は無いだろう。 それを平和と呼ぶかどうかは別にして。
しかし我々は実のところそれらを選択できる環境世界にいる。 どんな悲惨な世界にいようとも、どんな劣悪な世界にいようとも、実は少なからずその世界を恨むどころか感謝して生きている人々が存在することに真理を感じる。
人は何のために生まれてくるのか、何のために生きるのか。
誠に壮大なこの相反する存在世界でしか体験できないことを持ってして、私たちの魂は確実に一つずつ「成長」を積み重ねてきたのかもしれない。
一見、今の世界は後退退化へ向ってまっしぐらの様相に見えるのだが、同じ過ちを繰り返し続けているように見えるのだが、その実その反対のエネルギーをも体験しているのではないだろうか。
それを静かに静かに蓄積し続けているのではないだろうか。
今の不安の塊、恐れの塊のような世界の中から、同時に慈愛のエネルギーを確実に生み出しているのではないだろうか。
見えないから不安なのだが、だからといって見える価値が現状を救えるとは思えない。
やはり見えない慈愛こそが救うのだろう。
どこにいても、何をしても、どんなに迷っても、失いかけても、最後の最後までこの気持のかけらだけは失わずにいよう。
あらゆる環境の中で、そうするかどうかを「私の魂」は黙ってみている。









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