『食べるためのはしを作ろうとすればある程度細くしてから削りだすのが普通なのに、太い木のまま削りだす。一匹のさかなを丸ごと渡すと洗剤で洗う。信じられないが、ごく普通の大学生の姿だ。
子どもキャンプのボランティアに来たのに「ご飯作っていいですか」「テント建てていいですか」とあたりまえのことをいちいち聞きにくる。
自分で判断して行動するという肝心の部分を欠落させたまま大きくなっている。「好きにしたら」というと本当に困っている。指示や命令にどっぷりつかり、自分の体験を失っている。
ほって置くと、みそ汁はみそ煮込みになる。刺身も包丁で押しつぶしてぐちゃぐちゃ。とても食えたものではない。なのに嬉々として食べているのは自分で作った喜びがあるからだ。
困ったり失敗したりする経験はとても大切だ。みそ汁のはずがみそ煮込みになれば、次はどうするか考える。
生活が便利になり、子どもが自分で考えて動く機会が奪われている。子どもは指示や評価で自信を失い失敗恐怖症になり、本来の主体性を発揮できなくなっている。
私は危険の少ない清水域でカヌーをするとき、小学生でもライフジャケットの付け方を教えるだけ。はじめはぎこちないが30分もたてば大胆に乗りこなす。首をかしげながら、ちょっとした手ごたえをもとに自分でやってみるところが面白いのだ。手取り足取りでは、肝心のところが育たない。
年齢が上がるほどいちいちどうしたらいいかと聞いてくる。自分の失敗から学ぶ「失敗力」がどんどんなくなっている。
私の自然学校では、4、5歳になればナイフを持たせる。ナイフは危険だし、小さな怪我はしょっちゅうだが、痛みを通して人が傷つくのはどういうことか身を持って知ることが大切だ。手間隙はかかるが、肝心の部分で手抜きしてはいけない。刃物を取り上げればいいというものではない。身体で感じれば深いところまで入り込む。
コンピューターゲームの映像を通して痛みを学ぶとしたらこんな恐ろしいことはない。いきなり相手を刺す、というようなことにもなる。
夏に沖縄で一週間、無人島生活をする。小学校高学年以上が対象だが、やりたいことをやらせる。指示ばかりされた子がやりたいことをやると、地を出してものすごくやんちゃになる一方で、他者にすごく寛容になる。自然の力だろうか。何とも面白い。
しんどい水運びを進んでやる子が出てくる。食事のときに独り占めしたいと言い張っていた子が、食事当番になると「自分はいいから」と信じられないことを言い出したりする。
普段やってもらっていることを全部自分たちの手でやることになる。汚れたテントの中を掃除すれば仲間から「気持ちいい」という言葉が返ってくる。生々しい手ごたえが貢献する快感を生む。
もっともそれは遊ぶ楽しさがあって初めてついてくる。初めから貢献や規律という価値を目指す活動とはまったく違う。
本音を出せばリスクを背負う。自分も傷つくかもしれないが、相手も傷つけるかもしれない。そんな失敗を重ねて、自分の未成熟とか限界を知れば、自己抑制とか他者への共感が生まれてくる。抽象的な自己全能感におぼれることもなくなる。
人は迷惑を掛け合う存在だ。互いにこんちくしょうと思いながら、折り合って人生を切り開く力を養うことが大切。』 伊勢 達郎
自然スクールNPO代表の記事の紹介です。 あいキャン経験スタッフは「うん」とうなずく所があるんじゃない? 未経験者も少し想像できるんじゃない?
もうすぐ私たちの「体験」が始まるよ。。
大事なことは「こうしてやろう」「「ああしてやろう」ではないということ。「子どもにまかせる」ということ。 正確に言うとそのバランスなんだけど、考えることではなくて、欲を捨てると自然とそうなるから安心して無心でやんなさい。 子どもたちから見たヒーローさん達 !




